あるいは事故死や病死など死に方に関わりなく
死というのは不条理なものでは有る。
だからといって、そのことが何の慰めにもなりはしないし
旅立った者は帰ってこない。
人の死の知らせを見聞きする度に
私は世界の軋みを思い知らされるような気持ちになる。
それが親しい人の死なら尚更のこと
誰に向かってというわけでもない「どうしてなんだ?」という問いは
死に方にではなく事実に対して発せられては消えてゆく。
我々は未来を予定しながら生きている。
「午後から、あの用事を片づけよう」とか
「明日の夕方までにはあの人に連絡をしておこう」とか
たいがいの場合、来る筈の“午後”や“明日の夕方”が消滅するなんて
想像もしなければ考えもしない。
しかし無情にも世界の軋みとは、そういった消滅をやってのける。
もちろん、私が、あなたがイナクナッテしまうという方法で・・・
直接的にも間接的にも人を死に至らしめる原因は沢山ある。
思いつくだけでもアレヤコレヤ・・・
明日の朝、目覚めても私は自分が生きていることに感謝なんてしないだろう。
仕事から帰ってきて五体満足に無事、一日を過ごせたとしても
自分が幸運だったとは思わないだろう。
不意に訪れた死の瞬間に私は何を考えるだろう?
いや、考える間もないかもしれない。
たぶん明日も、その次の日も私は保証されているわけでもない
“午後からのこと”や“明日の夕方までにやるべきこと”を考えているだろう。
「たぶん」なんて言っているが
希望的生命の連続性の維持を述べているにしか過ぎない。
だって世界がどんな風に誰の近くで軋むかなんて
誰にも解りはしないのだから・・・
ブログの更新もままならない故
もしも、私が死ぬようなことがあったら
少なくともネット上では確認のしようも無いことだなと思うが
まぁ、別に気に病む程のことでもない。
そんなことは家族、親戚、知人に伝わればそれで済む話だ。
また、おかしな方向に話が飛んでしまったなぁ・・・
