
アルベルト・ジャコメッティ展に
行ってきた。
名前ぐらいは聞いたことがあったのだが
どーいう人なのかは全然知らず
「まぁ有名な芸術家なんでしょう」
なんてアンポンタンな認識しか
なかったわけなんですが
彫刻が有名な方なんですね。
でまぁ、チケットにも
掲載されてるような
細長〜い人物のブロンズ像が
作風なんですが
なんだか
どっかの遺跡で出土した
農耕具のようにも見えます。
握りにくそうだな・・・。
展示内容は
ブロンズ像はもちろんのこと
デッサンや油絵
それに新聞の切れっ端に
書き込まれた落書きや
親交のあった
矢内原伊作との書簡とか
あれやこれやで御座いました。
浅はかながら全体の印象を書きますと
色彩の鮮やかさとか一切を拒否したかのような彩りの少ない感じでした。
デッサンは私のような者が見ても
「さすがに上手いな〜!」と思いましたが
その一方で展示されているブロンズ像はやっぱり
美術館で展示されているのを鑑賞するからこそ有り難みもあり
「自分の部屋にあったら邪魔だろうな〜」なんて
愚にもつかない感想を持ったのでありました。
牛田自身は部屋に置いてあるギターとかの楽器類も正直なところ
邪魔に感じております。
私の場合、鑑賞の対象として成立してないのですね。
購入するときはあれほど「かっこえ〜!」と思って
しばらくは眺めたりもしましたが、今となっては・・・。
なんとも節操の無いことで御座います。
まぁ、そんなことはどうでもよろしい。
パンフレットの解説にもあるように
”ジャコメッティがわき目もふらず取りくみ続けたのは、
人物を「見えるがままに」表そうという単純なようで
人物を「見えるがままに」表そうという単純なようで
実は不可能に近い試みでした。”
ということなんですが
もちろん誰しもがジャコメッティのブロンズ像のように
人物が細長く見えているわけじゃありません。
これはデフォルメされたものなんでしょうか?
字句通りに受け止めればジャコメッティには
人物がこんな風に見えていたのかも知れません。
他人の認識とか知覚を
その人に成り代わって経験するなんて不可能ですから
本当のところは謎です。
でも認識や経験にある程度の共有部分がなければ
会話はおろか社会生活なんて成立しません。
我々が共有していると感じているもの、あるいは信じているものって
いったいどれほどの正確さで認識出来ているんでしょうか?
例えば文末にくっつける笑いを表す。Wの表記を
悪意のない笑いだと誰もが受け取るでしょうか?
それ以前にそのWの表記は同じ笑いでも
悪意とまではいかないまでも嘲笑を表す意図によって
くっつけられたものなのかもしれません。
我々は前後の文脈によって読解するわけですが
その答えは、大概の場合、確認されることなく
互いの思考のなかで別々の違った意味を与えられた認識として
進行していくこともありうるでしょう。
なるほど自分が知覚したことを正確に他者に伝える作業というのは
実は絶望的なほど困難なことなのかもしれません。
でも、その一方で”だいたいのことが伝わっていれば”
なんとなく回っているこの世界というのは
そこそこ良くできてるのかもしれません。
もちろん誰しもがジャコメッティのブロンズ像のように
人物が細長く見えているわけじゃありません。
これはデフォルメされたものなんでしょうか?
字句通りに受け止めればジャコメッティには
人物がこんな風に見えていたのかも知れません。
他人の認識とか知覚を
その人に成り代わって経験するなんて不可能ですから
本当のところは謎です。
でも認識や経験にある程度の共有部分がなければ
会話はおろか社会生活なんて成立しません。
我々が共有していると感じているもの、あるいは信じているものって
いったいどれほどの正確さで認識出来ているんでしょうか?
例えば文末にくっつける笑いを表す。Wの表記を
悪意のない笑いだと誰もが受け取るでしょうか?
それ以前にそのWの表記は同じ笑いでも
悪意とまではいかないまでも嘲笑を表す意図によって
くっつけられたものなのかもしれません。
我々は前後の文脈によって読解するわけですが
その答えは、大概の場合、確認されることなく
互いの思考のなかで別々の違った意味を与えられた認識として
進行していくこともありうるでしょう。
なるほど自分が知覚したことを正確に他者に伝える作業というのは
実は絶望的なほど困難なことなのかもしれません。
でも、その一方で”だいたいのことが伝わっていれば”
なんとなく回っているこの世界というのは
そこそこ良くできてるのかもしれません。
