自身が思うところのセルフイメージとの間に
開きがあるというのは別に珍しいことじゃない。
他人に対して意識的に何かを演じているのか
結果としてある見え方をしているのかは別にしても
他人の目を通した姿が真実に近いということもありうるだろう。
その逆だってありうる。
”ありうる”なんてまどろっこしい書き方をするのは
その判断を下すのが自身でアレ他人でアレ
主観以外にありえないからだ。
自分以外の目を通した判断を
客観性だと証明出来るかといえば、はなはだ疑問だ。
大概の場合、人は結果を見て客観性を装い
客観性によって結果を予測出来たかのように
自身と周囲に対しての捏造をやってのけるものだ。
意図的であるかどうかは別にしても・・・。
ある人達に言わせれば私は”癒し系”なんだそうだ。
最近、違う場面で数名からそんな言葉を耳にしたので
”私が、そう見える。あるいは感じられる”事実はあるのだろう。
この”癒し系”というのは、なかなかの曲者であると思うのだが
反対語はなんだろう?”殺伐系”か?
私自身のセルフイメージとしては
”殺伐系”のほうが似合っていると思うのだが・・・。
心当たりはある。
普段の私と言えば争いごとが嫌いだし
それ以上にどーでもいいことに応えるのが面倒なので
のらりくらりと適当な毒にも薬にもならぬ対応をしている。
険悪にならず余計な責任も背負い込まず
尚かつ、いかに早く会話を打ち切るかということに腐心した結果だ。
それでも数名が”癒し系”などと
私を評価しているのだとしたら、まさに噴飯ものだ。
いや彼等に悟られないことに成功しているという点では
”殺伐系”のセルフイメージは
かなり正確に自身を認識しているのかもしれない。
あくまでも主観ではあるが・・・。
「おぉ〜俺は”殺伐”してるぜ!」秋の夜空に吠えてみる。
(近所から特に何の反応も無し。)
とかく類型に自身をあるいは他人を当てはめる誘惑というのには
抗しがたい何かがある。
それはお手軽な判断、要するに”じっくり付き合って相手を知る”
面倒くささを免除してくれるもんではある。
日常の付き合いなんて、そういった作業がほとんどだ。
誰彼と無くハグして回るような
親密な友情なんていちいち築いてられるかってぇんだ!
もう既に流通しているソレ風な類型に押し込んでしまえばなんかうまくいってるみたいだぞっと・・・。わからんけど。
「とりあえず害は無いようなので”癒し系”二人前!」
「店長!”癒し系”二人前入りました!」
カウンターの中で爽やかに響く時給670円
女子高生のバイトの声みたいなイメージだ。(なんだそりゃ!)
まぁ、いいや”癒し系”でいっとこう。
・・・今のところ何の不都合もないし。
