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2007年05月23日

正論。

”正論”というものが争いの道具に使われている場に遭遇するのは
当事者であるほど「面倒くせぇなぁ!」と思うわけです。

そもそもの目的が相手を”追いつめる”か”自らの責任を”回避”するかに
”正論”が行使されている状況というのは
(いや、もちろんその両方を狙ってることも珍しかぁないですが・・・)
そこはかとなく強制力の香りが漂ってくるもんです。



言葉の最後に「これもすべて、あなたのことを思えばこそ・・・」
なんて、お為ごかしをサービスで付けられても
「お腹いっぱいなんでポテトは遠慮しときます。」
と答えるのが精一杯。

職場で学校であるいは家庭や近所なんかのそこかしこで
言葉プロレスを皆さん楽しんでおられるのでしょうか?
いや〜体力のある方が羨ましい。
で、相手を言い負かした後の気分は爽快ですかね?


とりあえずコブラツイスト・・・とりゃ〜!(決め)


それとも追いつめたはいいが「窮鼠猫を噛む」ごとく
逆にこっちが大けがしちまったり
”正論”のハードルを高く上げすぎて自身が飛び越せなくて
大恥かいちまうとか・・・


まぁ、思い通りにならないのが世の常。
「”正論”取り扱い注意!」ってとこでしょうか


あるいは根拠のない「自分だけは免責されてる」なんて
ろくでもない感覚に取り憑かれて
周りから密かに
「正論大量生産工場あきらかに二酸化炭素出し過ぎ」みたいな
京都議定書を読み上げるまでもなく煙たがられているとか・・・

いや、なにね”正論”というのはおそらく弱い立場の者が
強い立場の者に抵抗するために有るような気がするんですよ
唯一、それこそがクソッタレの手には触れられにくい
”お札”みたいなもんではないかと・・・
思ったほど効かないってこともありますがね

だから誰かをいたぶったり追いつめる為に使われる”正論”というのは
インチキなんじゃないかと思うのですよ。
言葉の読みや内容が一緒でも、その目的や使われ方において正しく思えない
”正論”なんてありえるんでしょうか?

で、資格というわけじゃないですけど”正論”をはいても
後ろ指を指されない生き方というのがあって
まさに、そういった生き方をしている者からこぼれ落ちた言葉が
”正論”ではないかと思うわけです。
それは意図された戦略的使われ方をする言葉ではなくて
むしろ共感とか信頼といった場所に導いてくれるような
標識みたいな役割をする言葉ではないかと・・・


なんだか私が”正論”みたいなこと語ってますね・・・
もう、このへんで止めときます。ではでは。
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