最近の私は何やら不信感を感じている。
正確に言えばそれらの言葉の使われ方に
ある種の違和感、もっとザックリ言えば
”言い訳”や”インチキ”を感じている。
もしかしたら私は自らが勝手に妄想した
世間の空気みたいなものに過剰反応しているだけなのかもしれない。
そうではないと言い切れる自信もないのだが・・・
”総合扶助”とか”助け合い”というのにも
おそらくルールはあるのだ。
そしてそのルールでもって運営されるには
「助けられる側がある種のマイナスの基準を満たしていなければならない」という
同意が在るのも理解できる。が、しかし
「事実上、助けられる為のレギュレーションを一律に満たすことが稀である。」
故に審査するものによっては外角ギリギリの臭い球を
ストライクにカウントして結局ワンアウト!なんてことも起こってしまう。
そしてこれらの問題を引き起こしてしまう背景には
本来、助ける側であったはずの団体や個人の余裕の無さというのが
大きく影を落としているわけで
つまるところ凡人である私があなたが人助けする為には
経済的にも精神的にも余裕が必要であるという至極、全うな結論に至る。
”人助け”というのは余剰が生み出す徒花みたいなものか?
しかし、それでは私が助けて欲しい時に
「余裕がありませんから・・・」と断られたとき
私はどうすればいい?
まぁ、余裕の在る無しは、また別の話だ・・・
おそらく我々のほとんどが不公平感といものを抱えて生きているに違いない
自己評価と世間的な評価の乖離というものに悩む。
「もう、ダメだ!」という一方で
誰かが「いや、もっと出来るはずだ!」と応える。
「まだ、やれるはずだ!」とファイティングポーズをとろうとする者に
「もう、やめとけ!」と誰かがタオルを投げる。
多くの場合、問題は前者の方であろう。
そして人は往々にして判断を誤る。取り返しのつかないほうに・・・
”自助努力”や”自己責任”というのは
そうせざる得ない状況ではあるかもしれないが
決して目的ではない。
責任というのは出来ることならそれを問われる状況を
引き起こさないのが望ましいのであって
のっけから強制され脅迫されると
たいがいの場合、人は萎えてしまう。
その重さは天秤の片方に乗る”もの”や”状況”によって
大きく変わるわけだから・・・
そして、また一方の不公平感は本来、受け取るべき資格のないと思われる者が
受け取っている状況に向けられる。
つまり「ズルしてんじゃねーか?」というアノ感覚。
いや、本当のところどうだか解らない。
それぞれの事情なんぞ他人には想像もつかないのが普通であるし
”ズル”であったとしてもその手のことは
何時だって、なにがしかの形で一定数、存在することである。
もちろん、それを肯定するつもりはないのだが・・・
”許せない”感覚は自然であるとは思うが
行き過ぎた厳しさは本来、必要な者に助けが行き渡らない危険性を孕んでいる。
それは、微妙に目的のすり替わった”危険な純粋さ”だと思う。
そして、私自身のことを振り返ってみても
人というのは行き過ぎてしまうものだ。
最初に書いた”自助努力””自己責任”への不信感とは
その行き過ぎてしまったことへの違和感であり
それは常に見直され修正されることで
かろうじて機能するといった程度の
曖昧な基準に依存しているのではないのか?
それでも人は誰かを許せないものなのだ・・・たぶん。
