「世間知らず」と誰かが揶揄して言うとき
果たして人はどれほどの世間を知りうるものなのか?
実はずっと以前から気になっていたことではある。
似たような意味で耳にする
(私の場合、親とか教師からさんざん言われた記憶がある)
「社会の厳しさ」とか「大人のルール」とかの
運営、進行のされ方というのは
法による規制や束縛ではなくて
あくまで共同体的雰囲気や慣習が生み出す
”属する”ことが前提となっている関係性でもって成立する。
つまり一旦、共同体に属してしまえば
それが各人にとっての”世間”であるといえる。
で、あるなら世間というのは誰にとっても
それほど広いってわけじゃない。
だって共同体と同義語なんだもの・・・
”属する”ことというのは序列を要求する。
つまり共同体を強固で揺るぎないものにするべく
”逸脱”を許さない。時として”多様性”さえも排除してしまう。
共同体を安定的な場にするための排除。
・・・つまり、これってイジメですな。
だから理由なんて何でもいいのだ。
それは最初から排除が目的の言いがかりであり
排除の正当化の為に用意された”もっともらしさ”なんだから・・・
ただ排除する側というのは
こういったことに自覚的で在ることは少ない。
虐められる方にしてみればたまったもんではないが
排除される側に問題が在るのだと偽装されていなければ
正当化というのは成立しないのだから酷い話である。
そういった共同体の中で語られる”個”の自立なんていうものは
既に関係性に取り込まれた自立であって
まぁ、いってみれば”自立風”である。
ネギとワカメと一緒にみそ汁に入れたところで
美味くもなんともない。
だから”属さない”ことへの恐怖と
”属する”ことへの幻想を人が克服できない限り
イジメはなくならいだろう。
皮肉なことに、その幻想に気がついて自身に嘘がつけない者が
排除の対象になってしまうのだ。
目的化した怨念を説得することなんて出来やしない。
怨念はいつだって制裁を携える。
事故みたいなものだが逃げられるモノなら、そうした方がいい。
2007年09月16日
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