10月に入ってから、やたらめったら忙しかったのですが
ようやく落ち着きました。それでもFotologだけは律義に?
更新していたわけで、飽きないですねデジカメは。
さて近況などサラッと書いておきますと
近々、転職することになりました。
まぁ、いろいろと偶然が重なって決心したわけですが
自身でも驚いています。
今現在の職に就いて、ようやく一年以上が過ぎたというのに
どーなってんだ?落ち着かない野郎だ!と我ながら思うのですが
決断と行動だけはやたら速いのが私の性分ですから仕方ありません。
「そろそろ何かを変えなければいけない」
と感じた時期が続いたということです。
そして偶然にも選択肢が用意されていたので
それに乗っかったわけです。
その先に何が待ち受けているのかは
私にもさっぱり分かりませんが・・・。
最近になって、私がまだ少年だった頃のことを思い出しました。
このブログにも書きましたが私は勉強も嫌いで学校の成績が悪い生徒でした。
今だって、それほど優秀というわけじゃありません。
人並みの欠点と多少の自尊心の間を往復しては途方に暮れている。
それでも少年時代に比べればずっと不安は少ない。
中学生も後半に差し迫った私は部屋の天井を眺めながら思ったものです。
「俺はいったいこの先どうなってしまうんだろう?」
人生に目的もなく遊び呆けていても一人で部屋にいると
ふと、そんな不安がよぎるのです。
そして心が苦しくなって
どんどん自分が小さな存在に思えて
いたたまれなくなってくる。
世界から疎外されたような、そんな感じです。
思春期の不安定な精神状態に加えて
先行きが解らないということに畏れを抱いていたのです。
”解る”ということは問いに対して
用意されている答えを記憶しているということではありません。
体験や知識を通して在る程度のことが想定出来るということです。
まぁ、想定できたところで人は足を踏み外したり
思い通りにことが運ばないというのは世の常では在りますが・・・
少年の私には体験や知識は乏しく、数少ない想定しかできなかった。
自分がこれから放り出されるであろう世界は、それ故に畏れそのものだった。
畏れは世界が生み出すものではなく
自分の中に内在している無知や偏見が引き起こす理解不能さの拡大です。
だから解らないときは決断や判断を保留したほうが良いときだって在る。
そういった決断や判断を後回しにして
とりあえず、踏み出し、やってみることで少しずつ
無知が知識に変わり偏見が修正されて理解不能さを縮小させていくことが出来る。
それは勇気とか蛮勇とかとは違う”試み”の行為です。
ダメモトでやってみればいい。
上手くいかなくても言い訳なんかする必要はない。
他人に対しても、もちろん自分に対しても。
私がそうしたかったことに私以外の誰かの保証を求めたところで
なんの意味もありはしない。
少年の頃の私と現在の私に違いが在るとすれば
「生きている限り先行きが解るなんてことはありえない」ということを
私がようやく理解したという、その一点だと思います。
その理解は畏れを全く取り除いたわけではないけれど
私自身が押しつぶされない程度の重さにすることが出来るようになった。
about meというサービスでは
誰かが誰かの質問に任意で答えるということをやっています。
私も誰かにいくつか質問を投げかけています。
自分で作った質問に自身で答えたことは在りませんが
戯れに今日は自分で作った質問に自身で答えてみましょう。
風は吹いていますか?それはどんな風ですか?
それは、たぶん私が気がつかないだけで、いつも吹いているに違いない。
だから、いつもとりあえず私は風に身を任しているだろう。
いつか何処かで必ず気圧が変化し風向きが変わる。
それが逆風であっても追い風であっても、それを感じるとき
いつまでも同じように吹き続けるはずがないと知っていれば
なんとかやり過ごせることが出来るだろう。
