コミュニケーションが大事であるということに別に異論はない。
総合理解を深めることが組織やコミュニティの風通しを良くして
物事が円滑に進み、争い事を遠ざけ
本来、支払うべきでない社会的コストを低減さしてくれるという結末に
我々を導いてくれる有効なツールとしてそれが機能するのなら
まことに喜ばしいことではある。
では我々が“コミュニケーション”という概念をどれほどの
共通項でもって共有しているのか?ということになると私はかなり怪しいと思っている。
もっと、平たく言えば私の思い描く“コミュニケーション”とあなたの思い描くそれは
それほど似ていないのではないか?似ていないどころかまるで違ったものではないのか?
と懐疑の迷宮に迷い込んでしまうのである。
私は疑っている。
私が生きている世界では
声を発生させる場にしか認められないコミュニケーションという定型がまずあって
それ以外のもの、例えば沈黙が語る、ある種類の訴えに耳を傾けないまま
コミュニケーションの名のもとに発声を強要する
呪縛や圧力が本来あるべきコミュニケーションのあり方を
ミスリードする場面も多々、あるのではないかと。
言語の意味性の中にだけコミュニケーションを見出そうとする態度というのは
つまりは解釈や理解の範囲をせばめ
あらかじめ用意され演じられた総合理解というフィクションに収斂するだけのことで
コミュニケーションという道具が目的化してしまう錯覚を
引き起こしてしまっているのではないか?
あくまでも比喩的に言えば
赤ちょうちんの下でのコミュニケーションとは双方があらかじめ演出された
関係性を確認する作業であって
まったく異質の文化や習慣の多様性を認めるために機能しているわけではない。
つまりコミュニケーションとは本来、翻訳難易度の高い記号を読み解く作業であり
同質性の仲間意識をさらに強化する行為とは本質的に違っているのではないだろうか?
だとすれば、組織が(いや権力と言い換えても話は通じるだろうが・・・)
取り込もうとする安易なコミュニケーションは
従属や標準化を前提にしたものであって相手の多様性を認める方向には機能しない
むしろ、そこに働くのは同調圧力と排除の論理であろうことは容易に想像できる。
なぜなら多様性の理解とは当然のことながら
それまで存在していた組織の価値観の変更をせまるかもしれない。
根底から既存の権力構造さえも揺るがしかねない危険を内包していると
理解してもそれほど間違ってはいないだろう。
そこに差異は確かに生じている。
それを理解し共有すること自体、幻想だとは思う。
しかし、そういった幻想を前提にした付き合い方だって在るに違いない。
自覚的であることがチキンレースよろしく
崖っぷちギリギリのブレーキを踏ませることだってある。
誰かが誰かを取り込み、あるいは支配と従属の関係性に位置づけなくても
存在することそのものが許される状況。
・・・つまり他者を否定しなくても不安に陥らない感性を獲得し
差異や異質性に過剰な悪意を投影せずにやりすごす術を知るためにも
“コミュニケーション”というのは大事であるなとつくづく思うわけであります。
2008年01月27日
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