RDF Site Summary
RSS2.0 PodCast

2008年03月06日

連鎖を止めるアレコレ。

“寛容”というものについて
最近、思索を巡らしたりしているわけである。
つまり寛容さというものを他人に求めることは
有りがちであるけども
私自身が他人に対して寛容でいられるのか?
あるいは、寛容であっただろうか?
などという実生活には、な〜んも役に立ちそうにない
毎度バカバカしい与太話で御座います。




そこで寛容さというものをどのように定義づけるかというと
これまた、どうしてよいのやらウロウロしてしまう。
それでは不寛容というのはどういう状態なんだろう?
“厳しさ”と“不寛容”の見分け方なんぞあるのだろうか?
あるいは“甘やかし”と“寛容”の境界も同じく
どのように見極めればいいのだろう?
見極めるも何も異名同意なだけかもしれない。
about meで質問してもよさそうだが
答えが返ってきても判断しかねる。

ただ“寛容”というのは憎しみや禍の連鎖を止めるための
唯一と言って良い精神的装置ではあるけれど
こいつは莫大なエネルギーを喰ううえに
制御そのものが難しいときている。
丁度よいとこでスイッチを切っておかないと
“寛容”が変質して“恩着せ”になってしまうなんてことは普通にある。
そのことが原因で「オカシナことになっちまったぞ!」
なんて操縦桿の効かない状態で
滑走路を超えて薮の中に突っ込んで着地。
生命は、とりとめたが
機体は、大破なんてことも珍しくない。

装置そのものが上手く作動せずに
“不寛容”が暴走して戦争状態に突入。
その後は、お決まりの悪循環を繰り返すのは皆さんご存知の通り・・・。

程度の差こそあれ酷い仕打ちを受けたと感じている人間に
“寛容”を説くのも、なんだかデリカシーの無い行為だなんて思ってしまう。
かといって憎悪を煽るのも違うしなぁ・・・。

自分自身の“寛容”すらコントロール出来やしないのに
それを他人に求めるというのも冷静に考えれば
かなり無理のある話ではある。
いや、そもそも“寛容”というのは自身が主体的に
制御する装置であって
他人様のそれを「動かしてみてください」とか
「制御してみてください」とか「スイッチ入れてみてください」と
お願いしたりするものではないな

・・・そこを、なんとかお願いしたいとこではあるけど


とりあえず悪いことの連鎖を収束させる装置として期待される
“放置”というのもある。確実性にはやや欠けるが
(使用状況によっては更なる連鎖の原因になることあり)
“寛容”に比べれば省エネだけど
それでもエネルギーは、それなりに喰う。
ついでながら状況だけを変えるなら“逃走”というのもある。

目的は連鎖を止めること。

結局それが膨大なエネルギー消費を招くということに
速い段階で気がついておきたいものだと常々、思う。

連鎖を止める方法が“完全なる殲滅”と“寛容”であれば
やっぱり“寛容”の方がコストが安くつくのだろうな。
「自分の中で芽生えた“怨念”にケリをつけられるならば」という
条件は何にしたって付きまとうし
両方とも“忍耐”のいることではあるけども・・・

嗚呼、やっぱり役に立たない与太話だな・・・こりゃ。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのTrackBack URL
http://radilog.jp/tb/262922
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。