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2006年08月12日

戦争を考えてみる。

その記念日を”終戦”と呼ぶか”敗戦”と呼ぶかは
好きにして頂いてよろしい。
”敗戦”することで”終戦”したのだ。
戦勝国になれなかったことは必然で動かしようもない。
近代史の解釈なんぞ恣意性の衝突であるから
そのことにさえ自覚的であれば、誰が、どの立場を取ったところで

「支持している事実とは、すなわち望んでいる事実に
一番近いと選択されたテキストである。」と言えるかも知れない。

権力の亡霊に呪われた国家間の駆け引きに
どう付き合うかは、あるいは付き合わないという選択も含めて
それぞれ個人が決めればいいことだ。



「戦争を知らない子供達」はすでに初老に達している。
それでも、この世代が親の口から戦争経験を語られた世代であることは
間違いない。
私はもう少し下の世代に当たるわけだが
個人的な思い出を語らしてもらうと
私の母親は幼い頃に空襲にあい
近所の人に手を繋がれ屍の転がる街中を逃げ回った体験を
何度と無く私に語った。その度に「戦争は嫌なものだ。」と締めくくる。

父親は少年の頃、空襲で被弾した親戚の止血をするが
叶わず、その親戚を亡くしてしまった思い出を語った。

子供に伝えようとしたのは両親、共に戦争の理不尽さや悲惨さであり
決して勇ましさや政治的な話ではなかった。
体験者の素朴でいて実存に関わる”思い”とでも言えばいいだろうか?
こうした体験的に語られる反戦と
私のような未体験者が選択的に語る反戦は
おそらく乖離しているのだと思う。

例えが悪いかも知れないが食肉加工業者が語る命の尊さと
その経験がない消費者が語る命の尊さの関係のように
同じ言葉で語られたとしても
そのイメージに随分なズレがあるようにだ。
(とは、書いてみたものの自信がないな。
意外に似たようなものかもしれない。)

実体験の無さをイメージやテキスト等で補えるのであろうか?
理論的な整合性に付きまとう”後知恵”感を克服出来うるか?
映像によるリアルタイムで私は
”湾岸戦争”や”中東紛争”等を経験はしている。
しかし、そこには私自身の住む町が破壊される爆発音や土煙もなく
被弾によって散らばった肉親や友人の内蔵を拾い集める
流血による粘るような触感も臭いもない。
だとすれば未体験で語られる私の反戦とは未体験という点において
”ガンダム”を語るぐらいの妄想と等価ではないのか?

いや、等価であるかどうかはどうでもよい。
大事なのはそれらの体験を伴わない反戦が
戦争を引き起こさない為に充分な思考として機能するか?という点である。
記録は残せても記憶という個人的体験を引き継ぐコトは出来ない。
で有るが故に有史以来、戦争は絶えることがなかったのではないか?
だとすれば平和の有効期限とは戦争体験と敗戦を必要条件とする
あるサイクルを意味しているのに過ぎないのかも知れない。

中世ヨーロッパにおける”平和”の概念は
境界線では戦闘状態であっても
非戦闘員の市民生活を戦闘に巻き込まない状態であったという。
なるほど兵器の発達によりこの定義の有効性も失われたという訳か・・・。
ピンポイント爆撃で
民間人が巻き添えにならなかった話なんて聞いたこともない。

閑話休題。

「戦争は望まない。」誰もがそうであるだろう。
平和を語る脳天気さと戦争体験者による平和のありがたみの
似たような言葉の違ったイメージの間を埋める表現を
私は残念ながら思いつかない。

もうすぐ終戦記念日だ。これからも続いて欲しい平和とは
誰かが起こさなかった戦争ではなくて
私たちが起こさなかった戦争によるものでありたいと思う。
そう出来ればの話だが・・・。

この記事へのコメント
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Posted by e-アフィリ at 2006年08月26日 18:13
>e−アフィリ様

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Posted by 牛田@宅六 at 2006年08月26日 20:13
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