盆と正月に郷里に帰る度に景色が変化している。
数年前まで空き地が目立った造成地には家が建ち
国道沿いには出来たばかりのセルフ給油式のガソリンスタンド。
そうかと思えば出入りこそしていなかったものの
いつも目に付いていた店が無くなり別の業態の店舗が建てられている。
おそらく私の郷里に限ったことではなく
日本中の田舎町がこんな具合なのだろうと想像に難くない。
生活に必要なもので手に入らないものは無いし
それ以外のものだってインターネットで探せば
たいがいは見つけられるだろう。
都会から遅れること数年で私の郷里も
資本主義経済の恩恵?に与っているわけだ。
そこで暮らしている人には喜ばしいことであろう。
多少の田園風景や自然が失われたところで文句を言う人もいまい。
田舎であろうが都会であろうが
暮らしにおける利便性の欲求に、そう代わりがあるはずもない。
別に田舎の全てが
都会暮らしに疲れた人間を受け入れる為に存在しているわけではない。
それどころか都会に対する憧憬や嫉妬こそがそこに渦巻き
コンビニとレンタルビデオ屋の灯りが増えて
田舎の夜を多少、明るくすることだろう。
その歪で中途半端な賑やかさに都会の面影を見ようとしても
矮小化された欲望の規模に
改めて”田舎”という感覚を思い知らされるだけだ。
たとえ煌々と夜を照らす店の前に車高の下げられた
いかにもなワンボックスカーが停められていても
それはどこかに特有な風景や現象と言うことではなく
全国に一定の割合で棲息する
ある種類の人間が居るということを確認するぐらいのことでしかない。
おそらく市町村合併とかも影響しているのだろうと思うが
変わりゆく町の風景からだけでは私の郷里が
どこにどんなふうに向かおうとしているのかは、さっぱり判らない。
ここに根を下ろし、これからも暮らしていこうとする人にとっては
たまの休日に帰ってきて数日ブラブラしている私の問いかけなど
余計なお世話というものだろう。これ以上は触れるまい。
友人の運転する車の助手席で
少しばかりノスタルジックに引きずられながら
こんなことを考えていると思考を遮るように友人の話し声がした。
「俺の甥が・・・、いや姉の息子なんだけど・・・」
「んっ!あぁ〜・・・」町並みの変化に気を取られていて
なま返事を返す私。
「来年、高校を卒業するんだけどね・・・
駅まで自転車で5分ぐらいの距離を
毎朝、姉が息子を車で送り迎えしているんだよな・・・」
「えっ!?ずっとか?」
「そうそう、なんかオカシイよな。どう思う牛田?」
「ん〜、どう思うって言われてもな〜
他人様の家庭のことだし別にかまわんのじゃないか?」
私の答えに不服そうに友人は更に続ける。
「もう、高校の三年だぜ。
それも男の子だし迎えが必要なほど帰りが遅いってわけじゃない。」
何を憤慨しているのやら判らないが話は終わらない。
「普通、親なんかに毎日、送り迎えして貰うなんて
俺たちの頃だったら恥ずかしかったろう?」
まぁ、確かに
父兄参観でさえ親に来てもらいたいなんて思ったことはなかった。
それは、私の出来の悪さ故に
親に恥をかかしたくないという気持ちでもあったのだが・・・。
「うちの姉だけでなくて周りもそんな具合らしいんだ。」
「へぇ〜俺なんか親に弁当さえろくに作ってもらえなかったけどな〜
・・・放ったらかしだった。」
「そうだろ〜?親に構って貰った記憶がないよな〜」
「少子化の影響かね?」
「さぁ〜どうだろうね?」
町の風景も人の有り様も望まれたように変化はしている。
望みが叶うことと幸福になることは、また別の話ではあるわけだが
その願いが自らを滅ぼす呪いになりませんように・・・。
2006年08月16日
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